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先人STORY先人STORY

BUNKAの先人たちの軌跡をたどると、
それぞれの時代を動かしてきた情熱が見えてきます。
強い志が人々を魅了し、世の中を動かす波動となり、
やがて文化として根付いていく。
時代が動く瞬間を生み出してきた先人たちの足跡を、
ここでたどってみたいと思います。

日本服装教育の父 並木 伊三郎 明治20年生-昭和8年没 大正8年 並木婦人子供服裁縫教授所 開設 仕立職人から教育者へ転身し文化学園を創立する日本服装教育の父 並木 伊三郎 明治20年生-昭和8年没 大正8年 並木婦人子供服裁縫教授所 開設 仕立職人から教育者へ転身し文化学園を創立する

洋裁教育の開拓者

「服装の改良こそ、新しい日本の発展と、文化の向上の出発点である」
日本人女性の洋装が、まだ奇異の目で見られていた大正時代、創立者 並木伊三郎は、「洋装への移行こそが、日本の近代化を進める緊急必要事である」という信念から、文化学園の前身となる並木婦人子供服裁縫教授所を開設しました。
まだ時代の流れに合わず、人々に冷たい目で見られても、並木の胸は、新しい社会を実現しようとする理想に熱く燃えていました。

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誰もが学べる社会の実現

日本に洋裁が伝わった明治・大正時代、洋裁は、職人だけの専有技術でした。
並木は、「社会の発展につながる技術とは、一般の人々が当然身につけてよいものである」と考え、誰もが学べる場を創り、近代的な教育を目指します。
封建的な徒弟奉公から、誰もが技術を習得できる教育へ。
並木が追求した理想は、教育の開放と新しい社会の価値観を導くものでした。

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「原型」の開発

服の原理を最も平易に、最も正確に伝える方法を追究し続けた並木は、「並木式原型」を編み出しました。 のちに文化式と呼ばれるこの原型は、人体の立体を平面化し服づくりの元型とするもので、多くの人に分かりやすく服づくりを伝えることを可能にしました。
これが、文化学園の服づくりが今日まで大衆的な広がりを見せた大きな要因の一つとなり、洋装の普及による社会の近代化を推進する一助となりました。

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世と人に利する理念 遠藤 政次郎 明治27年生-昭和35年没 並木伊三郎と共に文化学園を創立 並木が教育を、遠藤が経営を担った世と人に利する理念 遠藤 政次郎 明治27年生-昭和35年没 並木伊三郎と共に文化学園を創立 並木が教育を、遠藤が経営を担った

三得主義

「社会に利益、相手に利益、最後に自分も利益」
創立者の一人、遠藤政次郎には、自ら三得主義と呼ぶ信条がありました。
洋装の普及が日本の近代化につながると考え、ミシン販売を生業としていた遠藤は、洋裁経験のない家庭では、販売したミシンが活用されていないことを知り、衣生活の移行にはまず洋裁学校の設立が前提になると思い至ります。
「真に世と人に利することは何か」
遠藤の行動原理には、常にこの考えがありました。

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「まず与えよ」

学校運営の秘訣を問われると、遠藤は必ず「まず与えよ」と答えたと言われています。
学生に喜ばれ、学生のために尽くすこと。それが愛校心の源泉となり、学校運営の根本となると遠藤は考えていました。
購買、寮、食堂は採算度外視で整え、10,000人の在校生を一堂に集め、できたばかりの武道館やオリンピック競技場で卒業式や運動会を開催する。
学生を驚かせ笑顔にするこの精神は、今も文化学園に引き継がれています。

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人情家のナポレオン

創成期、教育の礎は並木伊三郎が、経営の基盤は遠藤政次郎が築き、二人は二人三脚で学園の運営にあたりました。
遠藤の才覚は非凡で、出版事業・通信教育・連鎖校制度の創設やクリスチャン・ディオールの招聘、観光名所にもなった円型校舎の建築など、洋裁教育と文化の普及を叶えた施策は、全て遠藤の発案でした。
不可能を感じさせない言動と、周囲に心を砕く涙もろい性情から、遠藤は「人情家のナポレオン」と呼ばれたと伝えられています。

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私学教育の第一人者 大沼 淳 昭和3年生-令和2年没 昭和35年-令和元年 文化学園理事長 平成12年-平成31年 日本私立大学協会会長私学教育の第一人者 大沼 淳 昭和3年生-令和2年没 昭和35年-令和元年 文化学園理事長 平成12年-平成31年 日本私立大学協会会長

世界的な「文化の研究拠点」へ

創立者 遠藤政次郎から理事長の任を引き継いだ大沼淳は、文化学園を世界的な「文化の研究拠点」へと成長させました。
日本の服装教育を牽引してきた文化服装学院を母体に、大学・専門職大学院・日本語学校・幼稚園・附属中高を設置、教育を重層化し、服装のみならず、建築・デザイン・国際文化・観光・語学と、広く「文化」の探究へとその領域を拡張するとともに、研究所・図書館・博物館の整備や出版事業等を通し、世界に貢献しうる総合教育機関として、文化学園の飛躍を導きました。

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私学教育の振興

大沼は、文化学園だけでなく、日本の社会全体の発展を常に考えていました。
昭和39年、全国各種学校総連合会理事長に任じられた大沼は、産業発展における技術教育の重要性を説き、学校教育法の改正と専修学校制度の創設を実現。あわせて、教員の認定や研修制度を整備し、教員の質的向上を図るとともに、学習者に対しては全国統一の技術検定制度を導入し、教育の質の担保と学習成果の可視化、統一基準の導入を通じ、教育の振興に尽力しました。

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文化の発信源をつくる

服飾にかかわる文化的資源を収集・保存し、その価値を社会に発信、新たな文化を生む土壌をつくることに、文化学園の社会的使命の一端があると考えた大沼は、服飾資料に特化した図書館や博物館を開館しました。
中世に出版された貴重書や世界各地の衣装、染織資料など、集められた約50万点の貴重な資料は、展示を通して一般に公開されるとともに、国内外の研究者や文化事業の活動にも活用されています。

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クリエイターのゴッドマザー 小池 千枝 大正5年生-平成26年没 昭和10年 入職 昭和58年-平成3年 文化服装学院長クリエイターのゴッドマザー 小池 千枝 大正5年生-平成26年没 昭和10年 入職 昭和58年-平成3年 文化服装学院長

デザイナーの育成

元文化服装学院長 小池千枝は、デザイナー育成の専門教育に取り組み、コシノヒロコ、コシノジュンコ、髙田賢三、山本耀司をはじめ、多くのデザイナーを世に送り出しました。
イブ・サンローラン、カール・ラガーフェルドら、のちに世界のモードを牽引するデザイナーと机を並べパリで学んだ小池の、美しいラインを生み出す指先と、世界のモードの解説は、いくつもの若い才能を開花させ、日本のクリエイションは大いに進展しました。

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立体裁断の導入

昭和29年、パリへ渡航した小池は、日本の平面裁断とは発想の異なる「立体裁断」と出会い衝撃を受けます。
人体を模したボディに布を当て、直接デザインをする立体裁断は、立体のボディと布のもつ物性とが描き出す創造的な操作で、高いデザイン性を叶えるものでした。
帰国した小池は立体裁断を授業に導入、平面裁断と合わせたその新しい教育は、創造的なデザイナーを育成し、日本のファッション界に大きな進化をもたらしました。

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デザイナーという職業を生む

アパレル産業が確立してなかった昭和30年代、日本のファッション界はまだ、デザイナーとは何なのか、どう扱えばよいのかも分からない状態でした。
デザインの重要性と既製服時代の到来を確信していた小池は、問屋を一軒一軒訪ね、あらゆる会合に顔を出し、デザイナーの必要性を経営者層に説明して回ります。
小池のこうした情熱が、デザイナーという職業を社会に定着させていきました。

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「服装学」の提唱 中田 満雄 明治38年生-昭和59年没 昭和12年 入職 昭和56年 文化女子大学名誉教授「服装学」の提唱 中田 満雄 明治38年生-昭和59年没 昭和12年 入職 昭和56年 文化女子大学名誉教授

学問としての服装デザイン

文化女子短期大学で教鞭をとった中田満雄は、意匠学・服装デザイン・色彩学を、服装に関する学問として日本で初めて確立しました。
学問としての服装デザインや服装に関する色彩講座は当時どこの大学にもなく、例えば色彩学については、科学的・光学的な研究はありましたが、それを服装上に利用するためには、新たな研究が必要でした。
それは、文化学園ならではの新しい学問の誕生でした。

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脱・家政学

文化女子大学の開学にあたり、中田が目指したのは、「脱・家政学」でした。
衣を単なる「もの」として考えるのではなく、「人」と「もの」の関係、すなわち「人」と「衣」の関係を追究し、デザイン・構造・材料学に加え、人の心理や社会と服装との関係を考察する。家政学の枠を超え、服装をひろく捉えようとしたこの思想は、その後、新たな服装研究の潮流を生み出すことになりました。

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「生活造形学」の旗手

昭和40年、中田は新たに「生活造形科」の設置を提起しました。
衣食住の住を扱うこの科では、作家中心の従来の芸術教育ではなく、生活者の立場での日常に根差した創造を目指し、生活上の課題を解決するデザインや、生活を彩るデザインを追究。「生活造形学」と名付けられたこの思想は、現代の生活デザインの理論を先どるものでした。

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最初のファッションジャーナリスト 今井田 勲 大正4年生-平成元年没 昭和26年 入職、『装苑』編集長 昭和49年-昭和62年 文化出版局長最初のファッションジャーナリスト 今井田 勲 大正4年生-平成元年没 昭和26年 入職、『装苑』編集長 昭和49年-昭和62年 文化出版局長

オシャレと教養の雑誌『ミセス』

服装研究誌雑誌『装苑』を数年で約30倍の発行部数に成長させた今井田は、昭和36年、婦人誌『ミセス』を創刊します。
『装苑』より上の世代を対象に、暮らしの中の美しさを、洗練されたビジュアルで発信するコンセプトは、当時ゴシップ記事の多かった女性誌の中で、オシャレで教養高い雑誌として注目され、昭和42年には55万部を突破。また、アートディレクターの起用や変形判印刷など、従来にない取り組みは、出版業界に大きな影響を与えました。

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呼び屋・出し屋と呼ばれた人たらし

幅広い教養と穏やかさで人たらしと呼ばれた今井田には、呼び屋・出し屋の二つ名がありました。
昭和28年にクリスチャン・ディオール一行を、昭和33年にはパリの劇場で隣り合っただけで知己となったピエール・カルダンを日本へ招聘、昭和35年に中村乃武夫をパリに送り日本人初の個人ショーを成功させた後には、森英恵、芦田淳をはじめ多くのデザイナーの海外進出にも尽力します。
今井田は、世界と日本をつなぐ交流の懸け橋でした。

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デザイナーの登竜門「装苑賞」を創設

昭和31年、今井田は、『装苑』20周年を記念し、デザイナーの登竜門「装苑賞」を創設します。
今日のようにデザインコンテストがなかった時代、今井田は受賞者に対し、『装苑』誌上での作品発表の機会や、デザイナーや記者との出会いの場を設け、新しい才能の支援に尽力。コシノジュンコ、髙田賢三、山本耀司をはじめ、世界を舞台に活躍するデザイナーを次々に輩出し、日本のファッションの発展に大きく貢献しました。

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洋裁教育の普及を支えた先駆者 原田 茂 明治29年生-昭和59年没 大正13年 入職 昭和35年-昭和46年 文化服装学院長洋裁教育の普及を支えた先駆者 原田 茂 明治29年生-昭和59年没 大正13年 入職 昭和35年-昭和46年 文化服装学院長

洋裁の教授法を案出

洋裁の教科書もスタイルブックもない大正時代、のちの文化服装学院長 原田茂は、創立者 並木伊三郎のもと、洋服をどのようにしてつくるかの理論づけを行い、いかにわかりやすく教えるかを追究、試行錯誤で教授法を案出しました。また、当時一般の人々に知られていなかった洋服の着用方法の教授と普及も担い、洋裁教育の基礎づくりを推し進めました。

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全国での教育活動

後年、原田は、連鎖校協会会長や通信教育講座の指導部長を歴任、各地の連鎖校と協力し、全国で洋裁講習会や巡回ファッションショーを開催するとともに、通信教育やスクーリングの拡充を推進しました。
いつでも、どこでも、誰にでも、地方に住む人や学校へ通うことができない人々にも、万人に教育の門戸を開く。原田は、洋裁教育の普及と社会の発展に寄与し続けました。

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産業教育への転換

高度経済成長期、文化服装学院長を務めた原田は、職業人材の育成へと視野を広げた教育改革を実行します。
当時産業教育が進んでいたアメリカに渡り、教育機関とアパレル産業を視察。帰国後は、大量生産による既製服づくりのカリキュラムの導入や、工業用ミシンなどの産業教育用の施設の整備に着手し、日本におけるファッション産業教育の先駆となりました。

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服装デザインのパイオニア 野口 益栄 明治33年生-平成3年没 昭和2年 入職 昭和46年-昭和51年 文化服装学院長服装デザインのパイオニア 野口 益栄 明治33年生-平成3年没 昭和2年 入職 昭和46年-昭和51年 文化服装学院長

生活と風土に根差したデザイン

文化服装学院で教鞭をとった野口益栄は、大正から昭和にかけての洋装の黎明期にあって、「日本人の服装が外国の真似でよいのだろうか」「衣服とは、日々の生活から出てくるものでなくては」という先覚的な意識を持っていました。模倣からの脱皮と、生活・風土・文化に根差した衣服デザインの探究は、日本における衣文化研究の先駆けとなりました。

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デザイナーの役割を担う

昭和初期の日本では、デザイナーという職業はまだ確立されておらず、野口ら洋裁の教師は、今日のデザイナーの役割を兼ねていました。
『主婦之友』『婦人倶楽部』などの雑誌や『装苑』などのファッション誌に服のデザインを発表すると、それらを参考に洋装店が服を仕立てる。そうして洋服が流通していました。

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洋裁専門書の監修

野口は、文化服装学院で教鞭をとるかたわら、服装デザインの研究・発表を精力的に行いました。昭和23年発行の『文化服装講座』では婦人服・子供服編を執筆、『装苑』『ミセス』等、多数の婦人雑誌にも寄稿し、服装にまつわる専門書の著作監修を盛んに行いました。

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